被爆者の母とコンサート共有の年に
故郷に戻った年に、広島、岩国の友が一緒に音楽活動に力を貸してくれました。感謝にたえません。
その間ノーマライゼーション実践の形を模索しながら母もコンサート付添として関係者の方に温かく受け入れていただきました。父はなくなって来年で3年目です。当時の両親被爆の話を聞かされると同時に、その後の他府県の生活も経験しました。
この時期に、サーロー節子さん(広島県広島市南区出身8人の親族や多くの同窓生を失った)のノーベル平和賞授賞式関連でのスピーチを聞いて、「思っていたことを言ってくれた」とある被爆者の方が言っていたと情報を身近で得ました。(ICAN…二つの終わりのどちらをとるかという選択です。核兵器の終わりか、それとも、私たちの終わりか。)そんな中で、実際に被爆者に接するのが初めてだと言う複数の人に母は優しく接してもらいました。核兵器を使えば、紛争が解決しても容易に住めなくなってしまう事は福島原発の状況を見ればわかります。姉が夜中3時に目を覚まし、上空を闇夜のカラスが岩国方面に飛んでいた。と話していたのが夢でない事実として知ることになりました。